ギリ健、メンヘラな猛毒のブログ

社会不適合者が戯言を吐いているブログです

土浦連続通り魔事件

前回の記事が本への愚痴で終わったので、今回は事件の経緯、犯人の生い立ちに触れて、無敵の人予備軍である私なりに考察して行きたいと思います。

土浦連続通り魔事件

2008年3月19日、23日に茨城県土浦市で起きた通り魔事件。死刑になりたかった事件の元祖の様な事件。犯人である金川真大には死刑が確定し、2013年2月21日に東京拘置所で死刑が執行されている。

金川真大(当時24歳)は以前より現実の世界はファンタジーや魔法のある世界に比べて生きるのがつまらないと感じていた。自殺は痛くて嫌そうな為、人を殺して死刑になることを思いついた。父親の定年退職も近くなり、ゲームの世界に浸る事が難しくなるとも考えた。ゲームの小遣い稼ぎであるバイトを辞めて、凶器となる文化包丁を近所のホームセンターで、サバイバルナイフをネットオークションでそれぞれ購入した。事前にカーテンや壁で切れ味を確かめた。また逃走も考えて普段とは色の違うリュックも購入した。また変装用のスーツとネクタイを犯行2日前に用意し、逃走資金として40万円を引き下ろした。当初の計画としては気に入らない上の妹(家での不貞腐れた態度が気に入らなかった)を殺害後、学校を襲撃し、ネットオークションで品物を送らなかった京都在住の男性を殺害する気であった。

事件当日

2008年3月19日、この日は午前8時に起床。起床すると上の妹がいないかを確認するも、すでに家を出ていた。前日も犯行の機会を狙うも、家に居らずに失敗。そこで近所の小学校を襲撃しようと計画を変更。犯行の決意を表すため、2台持っている携帯の片方からもう片方にメールを送る。

「全ては運命だ。運命は変えられない。未来は既に決められている。以下略」

「私が死ねば、この世界は消滅する。私がこの世界を創造した。この世界は私の夢の世界なのだ。以下略」

2通の長文を送った後、肩にサバイバルナイフを掛けて、リュックに歯ブラシ、髭剃り等の日用品、野宿用の懐中電灯を入れて、午前8時半にマウンテンバイクに乗り、家を出発した。

小学校に到着すると、終業式で保護者が多くいた。取り押さえられることを危惧して、犯行を一旦は中止した。また中学校、高校も同様であるとして、学校襲撃は諦めた。犯行を実行するべき為に、マウンテンバイクで近所を物色した。

近所の家をランダムにインターホンを押すとMさん(72歳)が出てきた。老齢でやりやすいと感じた為、咄嗟に「自転車のタイヤがパンクした」と言い、空気入れを貸してもらい、手伝ってもらった。Mさんが空気入れを物置に戻そうと背中を向けた瞬間に、首に包丁を突き刺して殺害した。

突き刺した途端に動悸が激しく、動揺して現場にマウンテンバイクを置き忘れ、また連続殺人のマークとして、OZ(オズの魔法使い)を残すのも忘れた。そこで一度家に帰宅して、返り血を浴びた服を脱ぎ、壁に赤のペンで死とOZのマークを書いた。秋葉原まで電車で行き、理髪店で坊主にしてから、ビジネスホテルに宿泊した。

現場にあったマウンテンバイク、家に残された赤文字のマーク、携帯電話のメールから犯人と断定されて、すぐに指名手配された。弟が唯一連絡先を知っていた為、連絡するも繋がらず(逆探知防止で切っていた)顔写真も2年前のコンビニアルバイトの履歴書の写真しか、最新の物が見つからなかった。

第二の犯行まで

この日は当日発売のDSの「ニンジャガイデンドラゴンソード」を購入。気力を消耗していて、人を殺す気にはならなかったので、1日中ホテルでゲームをしていた。途中母からのメールに「俺が犯人だよ。早く捕まえてごらん」と挑発のメールをした。

 

翌日には神田のホテルに宿泊するも、チェックインの際に本名を書きそうになる。まだ1人しか殺せておらず、また警察の逮捕も近づいたと感じて、「人が多すぎず、少なすぎない知っている駅」として荒川沖駅を犯行場所に選んだ。

3月23日午前11時に荒川沖駅に着いた金川は、黒っぽい服を着て、滑り止め用のゴム手袋をつけた。そして両手に刃物を持って、体当たりをする様にして通行人に切り付け始めた。結果7人の負傷者と1人(Yさん 27歳男性)が死亡する。負傷者の中には犯行を警戒して巡回していた警察官も含まれていた。

ある程度の手応えに満足した金川荒川沖駅の交番に行き、誰もいなかった為、電話で「俺が犯人です。早く来てください。犠牲者が増えますよ」と言い、駆けつけた警察官に抵抗することなく、逮捕された。

死刑執行まで

逮捕された時から「死刑になりたかった」「誰でもよかった」等の供述が不可解とされて、精神鑑定を実施。結果は自己愛性人格障害でありのままの自分を受け入れられないといったものであった。裁判中も「蚊を殺すのと同じ」「ライオンがシマウマを食べるのに罪悪感を持つでしょうか?」と発言し、反省の弁は聞かれなかった。一審で死刑判決を受けると弁護士が控訴するも、すぐに取り下げて確定。確定後も早期執行するように法務大臣宛に手紙を送っていた。その甲斐?あってか確定後3年と2ヶ月で執行されている。

金川真大の生い立ち

1983年10月13日に外務省のノンキャリアとして働く父とパート勤務の母の間に生まれた。妹2人と弟1人がいる。幼少期は父親の仕事の影響で上海、ニューオリンズ、横浜等、転々とする。小学校5年生の時に土浦市へと引っ越しをする。一家は金川が小学校の頃は父親の提案で土日には家族でトランプをして遊ぶなどの交流があったそうだが、父親の教育への無関心、仕事の多忙さから一家はバラバラになっていく。会話もせず、上の妹に至っては母親と筆談で会話するという異様さであった。食事もそれぞれが別々に摂り、お互いに無関心、憎しみ合っている様な家庭であった。

小学校時の金川の評価は成績は中の中、もしくはやや下でおとなしい性格であったという。父親は生まれた当初こそ、物覚えが早い、ハンサムだと親バカなほど激愛していたが、金川の凡人さに期待が外れたのか、小学校高学年頃より、教育に無関心になり、母親に全てを任せていたという。仕事の多忙さも関係があったという。

中学生時も真面目で大人しく、反抗期はなかったという。成績も変わらず、中の中で高校は私立高校の普通科コースを自ら選択した。

高校に入った当初は弓道部に入り、友達も出来て順調な生活だった。弓道部では2番の腕前で、練習用の弓に名前をつけるほど、熱心に打ち込んでいた。ただ人付き合いはあまり良くなく、1人で帰宅して、読書をする事が多かった。一方で真面目で面倒見も良く、後輩達から評判は良かった。

豹変

高校2年生のときに「ムー」や父親から与えられた「子どものための哲学対話」を読んでから、常識に疑問を持ち、部室で坐禅や瞑想にふけるようになる。沖縄の修学旅行の感想文は人間の敵意を剥き出しにした文章を書き、担任から書き直しを命じられるも、半分ほどしか直らなかった。

挫折

高校3年生になると当初は大学進学を希望していたものの、興味がなくなったと言い、就職を考える。担任から和菓子会社を紹介されるも、会社側の判断で見学のみで返され、採用はされなかった。ただこれに関しては金川曰く捨て鉢な態度で挑んだのではなく、担任と面接の練習を繰り返し、かなりのモチベーションを持って臨んだらしい。逮捕後も面会で記者にこの件を聞かれると涙ぐみながら話すなど、本人はかなりショックだったらしい。この件が原因か、しまいには卒業しなくて良いと言い出す様になる。弓道部の仲間達の説得で何とか卒業に必要なレポートを提出するも、家の壁に穴を開けたり、カレンダーを破り捨てるなど、心は荒れていた様である。

高校卒業後

結局どこにも就職せず、犯行までゲームに必要なお金が要るとアルバイトをして、お金が貯めるとアルバイトを辞めるというのを繰り返していた。アルバイト先から評価は良く、真面目に仕事をしていたとのこと。接客が得意ではないのか、客から声が小さいと怒鳴られることもあったが、子供にはおまけで飴をあげるなど優しい一面もあったという。金川の心はこの頃から死刑のための殺人に傾いており、20、21歳の時には自分の中で完全に哲学を構築していたという。ゲームの関東大会で準優勝するも、すでに生きる意味を失っており犯行へと着実に進んでいった。

考察

生い立ちや犯行へのきっかけを側から見ると高校2年生辺りから雲行きが怪しくなったように思えます。人によっては思春期の厨二病を拗らせたようにも見えると思います。しかし私はそれだけとは思えません。何故なら家庭環境が余りにも酷いです。暴力や暴言のあるあからさまな毒親に比べれば、マシにも思えますが、あまりの希薄さからまるで他人同士が家に住んでいる様な感じです。特に父親の無関心っぷりは、私が調べてきた数々の犯罪者達の親の中でも相当酷い部類です。自分で勝手に期待しておきながら、期待外れだと思ったら、そっぽを向いてしまう。裁判でも自分の息子の事とは思えない程、他人事な発言をしています。その様子に弁護士が苛立ったり、遺族が謝罪に気持ちがこもっていないとして、手紙を返却したり等、この父親の無関心っぷりを示すエピソードは枚挙にいとまがありません。メディアでは放任主義と言われていますが、正直そのレベルを超えています。

東海道新幹線無差別殺傷事件の小島一朗受刑者の父親にそっくりです。この事件では父親の「一朗くんとは今は家族ではない」発言が叩かれていましたが、まんまそのままです。一応幼少期にはトランプをして、家族団欒の場を作る努力はしていますが、妹や弟が不登校になっているのを見ると、家庭に問題があるのは明白だと思います。

弱みを見せない金川真大

面会や裁判の場でもそうなのですが、彼は辛かった、苦しかった等の弱音を全く吐かなかったです。常に自信があるように振る舞っているように見えました。人に相談するといった事もしない為か、事件後に初めて、彼の家庭環境や考えていた事を知った家族や友人、知人が多かったそうです。弁護士にも弱みを見せたがらないことを指摘されていましたが、まさにその通りだと思いました。とは言っても人には言いたくない事があるのは犯罪者でも同じです。裁判だと触れたくもない過去の事をほじくり返されるので、余計に言いたくないという気持ちはあると思います。ただ彼の場合はそれが強かったようで、言い方は悪いですが、プライドが高過ぎたのではとも思います。助けを求められなかったのが、事件への一原因だとも思われます。彼は一貫して周囲からは真面目で大人しいと評価されています。なので周囲からは急に豹変した様に見えるかもしれません。しかし私的には学生時代の真面目で大人しいってのは良くも悪くも印象がないときに言うものだと思っています。誰も目に止めていないかつ、本人が悩みを話したがらない性格も相まって、高校2年生の時の様子が変貌した様に見えるのではと思いました。実際は彼の中では負が着実に積み上がっていて、ある日突然、急に変わったというのは、彼の事を誰も知らなかった故の感想ではと思いました。

超個人的な感想

私的には秋葉原通り魔事件の加藤智大元死刑囚と東海道新幹線無差別殺傷事件の小島一朗受刑者を組み合わせた様な人格だと思いました。時系列的に言えば、この2人が後に犯行を起こすので、影響を受けた可能性はあります。現在の死刑になりたかった事件は大なり小なり、彼から影響を受けていると思います。秋葉原の事件に隠れがちですが、この事件は元祖無敵の人と言っても過言ではないです。あと私の超個人的な感想ですが、無敵の人は楽しみを知らない人が多いです。金川真大元死刑囚も酒、タバコはやらず、童貞でした。あるブログで手紙が公開されていたのですが、本人がその旨を書いていました。同じ通り魔でも宅間守元死刑囚のように酒、タバコはバカスカやり、女ともヤリまくり、前歴、前科だらけで好き放題やっていたならまだしも、彼の様に何の楽しみも知らずに若くして亡くなっている無敵の人には、無敵の人予備軍としては同情してしまいます。調べた限り、根っからの悪人どころか、一歩道を間違えなければ、普通にどこにでもいそうな青年でした。こんな記事を書いているとお叱りがきそうです。それでも私の様な無敵の人に片足を突っ込んでいる人目線の記事がひとつくらいあっても良いのではと思い、記事にしました。長々と書きましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました。